▶特別史跡 旧閑谷学校
旧閑谷学校は、岡山藩主池田光政が、庶民の教育を目的として寛文10(1670)年に設立した郷学である。
(略)
現在目にすることのできる閑谷学校の姿が完成したのは、光政没後の元禄14(1701)年、2代目藩主綱政の治政のもとで、創建当時の姿をほぼ完全に残しているものとして特別史跡に指定されている。
(現地案内看板より一部抜粋)
バス停から降り閑谷川に沿ってしばらく歩くと、石橋の先に見えたのは桜の共演中の校門でした。
早速、備前焼の本瓦葺きに鯱を載せた見事な正門、重要文化財のお出迎え。
敷地の周囲には約765m!の石塀がめぐらされています。
角ばったところがなく、かまぼこ型の石塀だからか、
2mの塀で感じる圧迫感は感じませんでした。当然、影もアール。
実はこの石塀の地面下には地上に見えている高さを同じ基礎があるそうです。
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表面の石に苔が生えない理由を、現地の映像説明で見ましたが、実際どうなんでしょう??
▷講堂
閑谷学校といえば、代名詞ともなっているこちらの講堂。
入母屋造り、しころ葺きの屋根材もまた備前焼瓦です。
創建当時は茅葺きだったそう。現状とはかなり印象が違ったでしょうね。
内部も自由に見学できます。
この解放感!気持ちのいい風が通り抜けていました。
(冬は少々、厳しそう…)
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磨きぬかれた拭き漆の床に、見事なまでに花頭窓が鏡のように映っています!
建物表記について寄り道・・・
[講堂]江戸中期(1701)。桁行19.4m×梁間15.6m
3間×2間の身舎(丸柱に囲われた内室)の周囲に広い庇をまわし、さらにその外側に幅1.7mほどの縁を設けている。縁は外周に柱を立て、通常は吹放しで夜間のみ雨戸を閉じる。母屋、庇とも同高の拭板敷で、境に無目敷居を入れる。庇の外周は各面とも中央だけ扉で他は大きな花頭窓を並べる。
(参考文献:『国宝大辞典(五)建造物』)
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身舎(もや)と庇の表記だけで、建物の平面・規模・形式を表現できるのは「間面記法(けんめんきほう)」と呼ばれる古代から用いられている方法です。
この表記が用いられる時代の技術の制約により、身舎の桁行方向には延長可能だったころから身舎の間口(技術的に1~2間が限度)は表記せず、桁行方向だけ表記すれば建物の平面・規模を表現できたのです。あとは中心部となる身舎の周囲に庇が何面つくか、で完結します。
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改めて、旧 閑谷学校の講堂に当てはめると、「三間四面」といった具合でしょうか。少し乱暴かもしれませんが、間面記法で表記できるシンプルな構造に魅せられたのかもしれません。
(寄り道 完.)
▷飲室
講堂から廊下で続く 飲室 は小屋梁現しで、中央には床板と同面で炉が切ってありました。
炉の縁には「斯爐中炭火之外不許薪火」との彫り込みを発見!
▷小斎
講堂の南に位置する小斎。生憎内部には入れませんでした。
平面図の下側が講堂に縁につづきます。
小斎の屋根は杮(こけら)葺き
よく見ると、杮葺きの棟抑えももれなく備前焼瓦!
▷閑谷神社
講堂の北東に位置する閑谷神社。
こちらには閑谷学校の創始者である池田光政を祀る神社。
あまり見かけない鬼瓦?はまるでヘルメットのよう・・・
こちらの瓦には池田氏の家紋である備前蝶をあしらっています。
光政さん、蝶好きだったのでしょうか?
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ちょっとここで気になる“ポチ”を発見
広小舞部分に謎の“ポチ”
塗り込められているものも木部のものにも。
どうやら、これは備前焼瓦の伸縮により生じる隙間から浸入した雨水を逃がすためのものらしいです。しかもこの“ポチ”自体も備前焼の管!
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ちなみに…
▷黄葉亭(こうようてい)
講堂から少々離れたところにある黄葉亭へ。
来客や教職員、生徒の憩いの茶室として建てられたそうです。
残念ながら内部公開はしておらず外観のみの見学。
ん??
こちらの茅葺きの棟抑えも見事な備前焼き!
すり鉢のようで、チャーミングですね。
備前焼の徹底ぶりに脱帽です。
▷文庫・火除山
講堂の奥へ戻って…
土蔵のようないでたち、文庫です。いわゆる図書館。
もちろんこちらも備前焼瓦。
建物裏の 火除山 を防火対策で小山がつくられています。
少し長くなってきたので、
この小道の先は現地でのお楽しみということで今回はこのへんで。
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バスの時間を気にしながら約2時間、満喫。
展示内容をじっくり見るなら完全に時間不足。
また別の季節にも行ってみたいと思うところでした。
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仕立建築舎 平賀
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